沖縄歴史認識懇話会

沖縄差別(その2)

1952年サンフランシスコ平和条約によって日本は国際社会へ復帰したが、沖縄は同条約で米国の施政権下にとどめ置かれた。1972年に沖縄が日本に復帰するまでの20年の間に、「沖縄差別」意識はどのように推移したのか。

(今回は「沖縄差別」の問題を県民意識の面に重点を置いて20年間の推移を概観することとし、制度面については次回で取り上げる予定です。)

1.1952年4月28日サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立国として国際社会に復帰しました。その後節目、節目において政府はこれを記念する式典を行ってきました。この式典は大多数の日本国民にとっては慶事であり、同時に、1945年8月15日の敗戦以後やっと国際復帰が認められた我が国の苦しい戦後歴史に思いを巡らせる機会でもありました。

(注)東西冷戦の対立、朝鮮戦争等国際情勢が緊迫化している中、サンフランシスコ平和条約締結交渉が行われました。当時我が国では、(すべての旧交戦国を含む)全面講和か(サンフランシスコ平和条約を締結する用意がある国々との)部分講和か、といった激しい議論が行われましたが、政府は日本が自由民主主義諸国とともに国家としての発展を追求すべきとして、後者を選びました。それが今日の日本の繁栄をもたらしたことは、歴史の示す通りです。我が国は、サンフランシスコ平和条約には参加しなかった対日連合国との間では、その後2国間ベースで平和条約等を締結し、着実に国際社会に復帰していきました。

2.一方、当時の厳しい国際状況の下、サンフランシスコ平和条約によって沖縄は引き続き米国の施政権下に置かれました。政府にとってはこの受け入れ以外に他の現実的選択肢は持っていませんでした。その結果、その後1972年の沖縄の日本復帰まで20年の長きにわたって、沖縄の人たちは、米国の施政権下に留め置かれることなりました。

*沖縄では、サンフランシスコ平和条約交渉の前後から独立論と復帰論の二つの動きが見られていました。そのどちらも実を結ぶことはなく、同条約で、沖縄に対する日本の潜在主権は認められたものの、米国の施政権下に置かれることになった訳です。(復帰運動は60年以降再び活発になっていきます。)

*サンフランシスコ平和条約締結後、沖縄では、米国民政府のよる土地収用令の公布、米兵による幼女暴行殺人事件(由美子ちゃん事件)、いわゆるプライス勧告とそれに反対する「島ぐるみ闘争」、米軍トラックの信号無視による中学生死亡事故(国場君事件)に対する米軍事法廷の無罪判決、嘉手納基地でのB52墜落爆発事故、コザ反米運動といったような沖縄住民たちの安全を脅かし、反米軍基地感情を高める問題が続いて起こりました。一方、復帰運動を再興させる動きも始まり、1960年4月28日、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成されました。また、その間沖縄が厳しい諸状況に置かれている中で、復興のための地元行政当局による地道な努力が続き、日本政府による沖縄支援も強まっていきました。

3.サンフランシスコ平和条約締結から沖縄の日本復帰に至るまでの期間、沖縄問題に対する本土の人たちと沖縄の人たちの間の意識にどのような変化があったかについて概観してみましょう。

*1953年1月に今井正監督「ひめゆりの塔」(東映)が公開され、“沖縄戦=ひめゆりの悲劇”という沖縄に対するかなり単線的なイメージが本土では広まっていったようです。一方、米国の施政権下に置かれた沖縄では、保革対立も激しく、政治経済社会情勢は流動化していきました。こうした状況で、沖縄の人たちの本土への思いには、複雑さが増していったようです。

*61年の復帰協主催の4.28集会「宣言」において、「沖縄県民にとって屈辱的な日」という表現が初めて登場したと言われています。60年12月国連総会で「植民地独立付与宣言」が行われたことも反映したとして、以後「屈辱の日」という表現は沖縄の植民地的支配を批判する運動につながっていった、と指摘する沖縄問題専門の学者もいます。この“4.28=屈辱の日”という捉え方が、沖縄の日本復帰が達された1972年以降今日まで、具体的にどのような推移をたどってきたかについては、専門家の研究に委ねたいと考えますが、日本経済及び沖縄経済の発展とともに、恐らく「屈辱の日」という感情表現は県内でも次第に抑えられる傾向にあったと推測されます。ところが、2013年になり、沖縄では、再びこの「屈辱の日」が大きく取り上げられました。

*2013年4月28日、第1次安倍晋三内閣のもと、政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が東京の憲政記念会館で開催されました。一方同日宜野湾市では、「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」(主催・同実行委員会)が開催され、主催者発表で1万人を超える参加があったと地元紙は報じました。大会決議には、サンフランシスコ平和条約によって沖縄は日本から切り離され、日米安保条約によって米軍基地が存続することになった、県民には日本国憲法が適用されず、基本的人権や諸権利が奪われている、4・28は沖縄県民にとって「屈辱の日」にほかならないといった文言が採択されました。当時那覇市長であった翁長雄志現沖縄県知事は、那覇市庁舎を(地元では悲しみを意味する)紺色の旗50~60枚で覆ったそうです(同知事著「戦う民意」)。なお最近翁長知事は、知事就任後、この決議に含まれた日本国憲法との関連をよく口にします。

(注)沖縄県内には現在でも4月28日を「屈辱の日」、「日本に見捨てられた日」と呼ぶ人たちがいるということ、また、その持つ意味は何かということについて、沖縄復帰後の推移を検討してみる必要があるというのが、「沖歴懇」としての問題提起であり、以下はその背景説明です。

4. 1972年5月15日の沖縄返還協定締結に際し、本土の人たちの多くは、長年にわたる沖縄の祖国復帰運動に応え、返還協定の締結というところまで持っていった政府の努力を高く評価したものと思われます。復帰後も多くの米軍基地が沖縄に残るという現実はありましたが、沖縄県民に対して“長い間ご苦労でした”、“よく日本に復帰して来られました”、“これからは日本一丸となって国の発展に努力していきましょう”といった気持ちを多くの本土の人たちは持ったことでしょう。同時に、サンフランシスコ平和条約締結と沖縄の日本復帰をセットとして捉え、沖縄県民に対する長年の「心残り」に一区切りをつけることができたというある意味で「ほっとした」気持ちを持った人たちもいたことでしょう。

5.沖縄でも多くの人たちは日本復帰を基本的に歓迎したと思われます。一方。その心情には複雑なものがあり、本土の人たちとの間には、心理的な”ずれ”もあったようです。1972年5月15日東京の日本武道館と那覇の市民会館の2会場で(テレビ中継で)行われた沖縄復帰記念式典において、当時の屋良朝苗琉球政府行政主席(復帰後の初代沖縄県知事)は、式典挨拶の中で、復帰の内容には沖縄の願望が入れられていないところもあるとして、「私どもにとってなおこれからも厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」と述べたことが、その一例でしょう。

6.本土と沖縄の心理“ずれ“について

*戦後日本の国際復帰から60年余も経た今日、日本のみならず沖縄も当時の予想をはるかに越えた発展を遂げたことについては、誰も異論を差しはさまないでしょう。それ故に、多くの本土の人たちは、2013年4月28日の宜野湾市における「屈辱の日」沖縄大会の決議に対して、余り大きな関心を示さなかったか、或いは、関心を示したとしても、大きな違和感を抱いたのではないでしょうか?本土の人たちの多くは、沖縄県がいまだに種々の困難な米軍基地問題を抱えていることを承知しているとしても、60年代の“4.28は沖縄県民にとって「屈辱の日」”というテーゼを今再び繰り返す動きには、なかなか付いていけないのではないでしょうか?

*翁長知事は前述の著書「戦う民意」(2015角川書店)の中で、「沖縄は日本の独立と引きかえにアメリカ施政権下に残されました。そうした歴史を抱える私たちからすれば、(一部省略)また同じ歴史が繰り返されるのではないかという恐れにとらわれます。」として、将来万が一の有事の際日本は沖縄を切り離すことへの恐怖心を強調しています。こうした心情に対し、多くの本土の人たちは、“常識的にそのようなことはあり得ないし、日本国民がそのようなことを許す筈もない”という思いを持つのではないでしょうか?

*沖縄県内では、日米安保体制を巡って沖縄の「県益」と「国益」の対立を取り上げる議論があります。それはそれで理解し得るところですが、そうした問題を「日本から切り離された悲しみの日」、「屈辱の日」といったサンフランシスコ平和条約締結時代にまで遡って議論するというのであれば、その裏付けについての検証が必要になるでしょう。これまでの沖縄県民調査では、こうした問題は取り上げられていないようです。

(参考)「沖歴懇」のコメント

*自らの防衛力の整備と日米安保体制を二つの大きな柱とする日本の基本的安全保障の枠組みに対する検討を抜きにして、「沖縄差別」の問題を議論することには、本来無理があることは、「沖歴懇」としても十分承知しております。一方、米軍基地問題を巡る複雑な沖縄の戦後歴史識問題を整理するとの観点から、ここでは敢えてサンフランシスコ平和条約の締結と沖縄の日本復帰を取り上げ、沖縄県民が当時この二つをどう捉えたかについて簡単に「定点観測」した次第です。

*いずれにせよ、本土の人たちが、「琉球処分」、沖縄戦、サンフランシスコ平和条約、沖縄の日本復帰等々の歴史的経緯や主要事実をよく知らずに、普天間飛行場の辺野古への移設といった今日の個々の米軍基地問題について議論し、不用意に「県民感情」を逆なでする事態は避ける必要があります。前回の「沖縄差別」(その1)でご紹介した“職を求めて基地周辺に多くの県民が移り住んできたのであろう。普天間飛行場の危険性についても、県民側に責任の一端がある”といった趣旨の発言がその一例です。他方、沖縄の側においても、現在の米軍基地問題を取り上げるに当たって、すべて「琉球処分」から議論するということでは、本土の人たちは付いて来ないでしょう。沖縄県民にとって大きな気がかりは、本土の人たちが沖縄問題に対する関心を益々少なくしていくことであると思います。そうした状況を避けるためにも、沖縄の側においても、制度上の問題、歴史認識上の問題等をよく整理した上での議論の展開が重要となりましょう。

読者の皆様、

上述の本土と沖縄の人たちの心理的“ずれ”についてどう思いますか?「沖縄差別」は、本土の人たちであろうと沖縄県民であろうと、相互の意識の底流にあると考えますか?差別意識があるとすれば、それを克服していくためには沖縄の歴史のどこまで遡って考える必要があると思いますか?

皆様のご意見を広くお聞きしたいと思います。同時に、政府と沖縄県によって設置する「沖縄賢人会議」において、米軍基地問題を巡る沖縄の歴史認識問題を専門家に議論して貰うという「沖歴懇」の提案についても、ご意見をいただければ幸いです。

次回は、「構造的沖縄差別」について論じる予定です。

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